(前回までのあらすじ)
運転士の御手洗(みたらい)さん(仮名)は、昼過ぎの下り乗務中に突然便意に襲われた。途中駅での待ち時間もなく、トイレに行けるチャンスは終点の折り返し時間しかない。
指令に連絡し、列車を遅らせて途中駅でトイレに駆け込むという選択肢もあるのだが、気が引けるし、便意の周期がまだ長いので耐えられると判断した。
御手洗さんは、まさに祈るような思いでハンドルに手を添え、前方を凝視した。
ズン!と来る便意が引くと、潮が引いたように落ち着くが、次の便意が来る恐怖と、お腹が張った感じはあるので、トイレに行きたいという気持ちは強い。
前方を凝視して、気持ちだけは終点の駅に向かって突っ走るが、列車はノロノロとしか走らない。
(このまま全速力で終点まで駆け抜けたい…)
終点が近づくにつれてカーブも増える。途中駅にも止まらなければならない。
ノッチを入れ続けたいが、そうはいかない。
ズン。…。…。ズン。…。…。ズン。…。ズン。…。ズン。
(お、おかしい。今日は周期が短くなるペースが早過ぎる!)
便意が来るたびに冷や汗がにじみ、便意が引くと冷や汗も引っ込む。
しかし、だんだん冷や汗が引っ込む間もなくなるぐらい、便意の間隔が短くなった。
ズン!ズン!ズン!
(うっ、うぉぉー!)
もう、座ってなんかいられない。椅子から立って、立ったままハンドルを握り、足をバタバタ、クネクネさせるが、今日の便意は容赦ない。
(こ、これはやばい!)
客室とのブラインドを閉め、自分の世界に集中してみる。これから終点までは自分との激しい戦いだ。子供やマニアに背後に立たれては、戦いに支障をきたす。
「あっ…。ぐぅ…。だ、第二閉塞、進行…。」
いつもはなんとなく指差称呼するだけの信号だが、全神経を集中して進行現示を確認する。肛門を意識しないようにしても、便意は消えるはずない。
むしろ、肛門に意識を残しておかないと、惨事になってしまいそうだ。
脂汗が流れ、頭の中が白くなってくる。
(だ、誰か、助けて…)
白い頭の中で妄想が浮かんだ。車掌が、
「お客様の中で、電車の運転ができる人はいませんか?」
と放送している。飛行機ではあるまいし、そんな馬鹿なことはない。仮に運転士仲間が客として乗っていても、昔と違って代わってくれることはないし、代わってくれたところでこの電車にはトイレがない。何の解決にもならない。
(うっ!)
終点まであと3駅というところで、少し漏れ始めてしまった!
しかし、まだ少量のはず。それに、少し出てしまった分、余裕が生まれたのではないだろうか。
ズン!ズン!ズン!
(ま、まだ治まらない!)
余裕など生まれていなかった。本格的なものが肛門をこじ開けて出てきそうだ!
列車の加速区間が終わり、ノッチオフで惰行する区間になったところで、御手洗さんは無意識にベルトを緩め、ズボンを下ろした。ズボンを汚すわけにはいかない。ズボンだけでも避難させたのだ。
その瞬間、肛門は破られた。下着が重くなるのを感じながら、急いでドウランの中の新聞紙を取り出し、下着から溢れた場合に受けとめらるように、足元に広げた。
(やってしまった…)
お腹はズンズンと波打ちながらも、急速に楽になった。しかしホッとしている場合ではない。一方で新たな問題を抱え込んでしまったのだ。この下着と新聞をどうすべきか。
今度は逆に、終点が近いのが辛い。終点に着いたら、ここを片付け終わっていなければならないのだ。
恐る恐る下着を下ろし、新聞紙の上に落とし、ちり紙で体に着いた汚れを取って、ズボンをあげる。不幸中の幸い、被害はそれほど大きくなく、上手に手早く片付けられた。
ブレーキをかけ、速度を落としながら、終着の2駅前で停車。新聞紙の上の悪臭以外、普段と変わらない姿である。客などに運転室を見られても、苦情が出るようなことはない。ここまで手早く済ませられたのは、ある種 の奇跡である。
幸いにも、終着に近いこの辺は、乗降客もほとんどいないし、社員が途中添乗してくる可能性もない。
途中添乗者など現れれば、人生、人格が崩壊してしまう。横目で添乗者が来ないことを確認し、車掌がドアを閉め、戸閉めランプが点灯すると、そそくさと発車させる。
運転室は強烈な臭いに包まれていた。後は何とかこの臭いの元を処理しなければ。
(そうだ!この先に鉄橋がある!)
鉄橋の下の川に投げ捨てれば、保線の人間にも気づかれない。
やってはいけないことは百も承知だが、これは人格に関わる大問題だ。
美しい山間の風景の中を列車は走る。惨劇のあった運転室では窓が全開にされ、御手洗さんはチャンスを伺う。
いつも以上に速度を落とし、ノッチオフしたところで丸めた新聞紙を片手に持つ。
鉄橋に差し掛かる。川幅は広くないので、余裕はない。迷うことなく新聞紙を力いっぱい投げ捨てた。
(思い出よ!さようならー!)
誰にも言えない不祥事。それでも何とか自己処理できてしまった。
終着駅。列車をいつものようにホームに滑ませると、御手洗さんの目まぐるしい下り乗務は終了した。