信楽高原鐵道事故(第2の鉄道人生)

 「明暗分かれる鉄道ビジネス」

佐藤 充 4年ぶりの書き下ろし!
沿線に住民がいる限り、あるいは東京~大阪を移動する人がいる限り、JR東日本やJR東海には金が落ちる。その金額は2〜3兆円にもなり、まさに「金のなり木だ」。一方、需要の少ないところではいかに身を切る努力をしても経営が成り立たない。
JR各社と大手私鉄の鉄道ビジネスを俯瞰的に見渡しながら、儲けの仕組みを解き明かす。
2019年9月30日発売
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信楽高原鐵道事故(第2の鉄道人生)

前回までのあらすじ)
「彼」は、滋賀県を走る小さな鉄道会社、近江鉄道で働いてきた。そのうちの24年間は運転士である。
運転士といっても、その仕事は運転だけではない。駅に着けばドアを開け、切符を回収する。客扱いが終わればドアを閉め、ハンドルを握る。
これが彼の鉄道人生だった。


このように黙々と働き続け、彼は56歳になった。定年退職も近い。
しかしこの年、昭和62年は、彼に転機をもたらす大きな出来事が発生する。国鉄が民営化され、JRが誕生するのだ。
私鉄に勤めていた彼には、国鉄の民営化など関係なさそうだが、意外にも大いに関係してくる。

近江鉄道の西端の貴生川(きぶかわ)には、貴生川と信楽の14.7kmを結ぶ、国鉄信楽線という短い路線があった。
この信楽線は、国鉄民営化の6年前の昭和56年、国鉄再建のための第1次廃止対象路線に選ばれ、まさに風前の灯になる。つまり、国鉄の重荷になっている赤字ローカル線の一つとして、切り捨て対象に選ばれたのだ。

それでも、このときは存続を望む住民の努力が実る。一度は廃止対象となったものの、その後は基準をわずかに上回る輸送人員が続き、国鉄に残れるのではないかと思われた。

しかし、その期待は数年後に裏切られることになる。民営化直前に廃止対象の基準が引き上げられ、あっけなく再び廃止対象路線になった。
こうなると、住民の努力の及ぶところではない。ついに国鉄民営化の年、第三セクターに転換されてしまう。

信楽線は、第三セクターの信楽高原鐵道になり、滋賀県や信楽町などの自治体の他、民間からは近江鉄道の出資を受ける。
この出資が、彼を信楽高原鐵道の社員にさせるのである。

ちなみに、近江鉄道が信楽高原鐵道に出資するのには、それなり理由があった。

近江鉄道は米原駅から貴生川駅までを結び、信楽高原鐵道は貴生川駅から信楽駅までを結ぶ。この既存路線を活用し、さらに信楽駅からJR片町線を結ぶ新線を建設すれば、近江盆地と大阪の中心をつなぐ、新たな鉄道路線が生まれるのだ。



この鉄道構想は、滋賀県や県下の自治体が熱望しており、実現すれば、近江鉄道も幹線鉄道にのし上がる。
この鉄道構想があるからこそ、近江鉄道にとって信楽高原鐵道は大切な路線であり、出資もするのである。

この鉄道構想、実現性は高いとはいえないが、それでも彼の人生を変えるだけの力はあった。信楽高原鐵道は、第三セクターに転換する際、社員を旧国鉄出身の人と、出資元の近江鉄道出身の人で再構成して出発する。彼はその大事な一翼を担うのである。

信楽高原鐵道は近江鉄道と隣接するが、その様相はだいぶ違う。
信楽は陶芸の里だけあって、丘陵地帯にあり、信楽高原鐵道も高低差のある路線を走る。平らな近江盆地を走る近江鉄道とは異なり、この鉄道は山を走るのである。

客との距離感もだいぶ違う。路線が短いので、客と社員が地元の知り合いであったり、そうでなくても、地元の客とは何度も顔を合わせるので、知り合いになってしまう。

地元の客が汽車に乗り込めば、運転士は、

「おぅ、今日は病院か?」

と話しかけ、持病の話、作物の話などが交わされる。

路線の短さから言えば、信楽高原鐵道はバス会社などよりも小さい。地元の客との距離感は限りなく近いのだ。

近江鉄道に比べても、かなり「ローカル」な信楽高原鐵道。こののどかな鉄道が、発足からわずか4年後、大事故の舞台となるのである。

続く



信楽高原鐡道事故については「鉄道の裏面史」で書籍化されました


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posted by 鉄道業界舞台裏の目撃者 at 20:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信楽高原鐵道事故 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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