信楽高原鐵道事故(信楽駅長の仕事)

 「誰も語りたがらない 鉄道の裏面史」

佐藤 充 5年ぶりの書き下ろし!
107 名の死者を出した「福知山線脱線事故」、政治家の思惑がからみあう「新幹線の利権」、鉄道が買われる「阪神電鉄村上ファンド買収事件」、東京を襲った未曾有のテロ「地下鉄サリン事件」、首都圏で起こった乗客の暴動「上尾事件」、初代国鉄総裁の謎の死「下山事件」……
2015年5月15日発売
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信楽高原鐵道事故(信楽駅長の仕事)

前回までのあらすじ)
近江鉄道で運転士を長くやっていた「彼」は、旧国鉄信楽線を引き継ぐ、第3セクターの信楽高原鐵道で第2の鉄道人生を歩み始めた。
この信楽線は、山間部を走る短い路線で、近江鉄道よりもローカルな路線だった。


信楽高原鐵道は、約20名の社員でスタートした。国鉄時代の約半分の人員である。

社長は信楽町長が兼任し、その他にも町役場の人が名を連ねる。町役場から来た人たちは、当然ながら鉄道事業は未経験で、それ以外の人たちが鉄道の実務を担う。

運転士は5名ほどである。その運転士を含め、鉄道の運行と駅務を行う部門(事故当時の部門名は「業務課」)には、全社員の半分の約10名しかいない。
彼らは少数だが、その構成は元国鉄職員と元近江鉄道社員の混成だった。同じ鉄道マンとは言っても、異なる土壌で育ってきた人たちである。

町役場の人、元国鉄職員、元近江鉄道社員。バックヤードが異なる約20名によって、信楽高原鐵道株式会社、略称SKRは発足する。昭和62年のことである。

SKRでは、有人の駅は、両端にある信楽駅と貴生川駅しかない。途中の玉桂寺前、勅旨、雲井、紫香楽宮跡前の各駅は無人駅で、貴生川駅も、業務をJRに委託している。
SKRとJR西日本は、貴生川駅を「共同使用駅」としているわけだが、「共同使用」というような対等な感じではなく、弱小のSKRが立場をわきまえ、遠慮がちに、巨大企業のJR西日本に身を寄せているように見える。
1両程度のSKRの車両は、貴生川駅の一番端のホームに出入りする。ホームも一つで、他に車両を留置させる線もない。改札口にはJRの社員しかいない。
さらに、貴生川駅ではSKRの切符すら買えない。これは、出札(切符の販売)まではJRに委託していないためである。貴生川駅からSKRを利用する乗客は、切符を買って乗車することができず、下車するとき精算する。無人駅であれば車内で、信楽駅であれば改札で。
つまり、この会社の業務は、ほとんど信楽駅に集中しているのである。

「彼」は、この小さな鉄道会社の社員として、第2の鉄道人生を送っていた。それも、信楽駅長という大役を担って。
田舎の駅長と言えば地元の名士にもなるが、信楽駅長はそのような名誉職ではない。「駅に関する一切の業務及び運転に属する一切の業務を処理する」実務的な仕事で、駅務と運行を掌握する立場なのだ。
小さい鉄道会社ならではの、かなり広範囲の仕事をするポジションである。このため信楽駅長は一人ではない。常時欠かすことのできない仕事なので、複数の人がシフトで担う。

彼は、信楽駅長兼運行主任として、SKRの中核となり、信楽駅で毎日鉄道を支えていた。


彼の日常は―

信楽駅に列車が入ってくるのは1時間に1度。この路線の運行は非常に単純で、一両か二両の車両が信楽と貴生川を往復するだけ。
昼間の駅舎には、数名の地元客と、陶芸を愛する熟年の観光客しかいない。

彼は、列車が信楽駅に到着する頃になると制御盤に向かう。この制御盤で、駅の信号などを制御し、列車を構内に導く。

「まもなく、列車が到着します。」

駅舎にいるお客さんに対して、列車到着のアナウンスをする。
駅舎で待っていた人たちは、ゆるゆるとホームに移動する。

しばらくすると、

「グルルルル・・・・」

と、1両の気動車が、山並みを背景に、遠くのカーブから姿を現す。そのまましばらく、壮大な自然をバックに、小さな車両がフラフラと近づいてくる。
信楽駅に到着すると、この列車はそのまま折り返しの上り列車になる。
信楽駅と背後の山

貴生川までの14.7kmのこの軌道は、1列車しか走らない。あまりにも贅沢というか、非効率なインフラである。反面、並行する国道307号には、車の往来が絶えない。

国道から少し離れたこの信楽駅では、車の音もなく、この気動車のエンジン音だけが響く。このエンジン音は、かえって静けさを際立たせる。

列車がホームに着き、ドアが開けられると、乗っていた客が降り、入れ替わって待っていた人たちが乗り込む。
しばらくして出発時間になると、彼は出発信号機を青にする。列車は再び、1時間かけて、信楽駅と貴生川駅を往復する。

のどかな路線である。彼の仕事は広範囲に及ぶとはいっても、難しいことはなかった―


彼をはじめ、少数の鉄道マンたちが支えるSKRだが、1編成しか運行されないので、列車の正面衝突は絶対に起きない路線であった。

そんな、乗客が少なく厳しい経営環境のSKRだが、発足から4年後に大好況が訪れる。
平成2年、信楽駅からほど近いところに、滋賀県立の「陶芸の森」という、陶芸のための巨大公園が完成する。県をあげて、この信楽に観光用の投資がなされたのだ。
そして翌年、「世界陶芸祭」という大規模イベントの開催が決まり、「陶芸の森」の華々しいお披露目となる。

このイベントには、大勢の人が押し寄せることが予想された。小さなSKRも、その大量輸送の一翼を担うことになる。

続く



信楽高原鐡道事故については「鉄道の裏面史」で書籍化されました


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posted by 鉄道業界舞台裏の目撃者 at 09:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 信楽高原鐵道事故 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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