「ちょっと、触ったでしょ!」
私が鉄道会社を退職した後のこと。帰宅ラッシュの通勤電車で女性が大きな声を上げているのを、少し離れたところで見かけた。
声の主は30代、もしくは40代と見受けられる若くはない女性。満員電車で大きな声を上げるのは度胸のいることだが、度胸は十分ありそうな人である。
「触ってない!変なことを言うな!」
頭の禿げ上がった、小太り、50代ぐらいの男性が、負けないくらい大きな声をあげ始めた。
どういう状況かは、車内の人はすぐに理解できた。女の人は痴漢されたと怒っており、容疑者となった男性は言いがかりをつけられたと怒っているのである。
(言い逃れの抗弁かもしれないが。)
「ふざけないで!警察呼ぶわよ!」
痴漢をしたあげくに、謝るどころか大声で言い返してくる男の傲慢さに、女の人はますます怒りのボルテージをあげる。女の敵、絶対に許してなるものか、という気持ちである。
「上等だ!俺はやっていないんだ!」
真相のほどはわからないが、もしも冤罪であれば、男の方も我慢ならない。
いつもどおり通勤電車に乗っているだけなのに、突然見知らぬ女に犯罪者に仕立てられてしまったのだ。それも公衆の面前で。こんな屈辱は絶対に許せない。
「次の駅で降りなさいよ!」
「おう、降りてやる!」
「逃げないでよ!」
「やっていないって言っているだろ!誰が逃げるか!」
周りで見ている乗客も、チラチラ様子は伺うが、立ち入ろうとする人など一人もいない。本当に痴漢があったのかな?男と女の顔を見比べながら想像してみるが、中年の男女だけにそれほど興味もわかない。どっちでもいいのだ。
世間というのは人を見た目で判断するものである。
痴漢を受けた女性が中年ではなく、か弱い女子高生であれば、正義感を燃やして、
「どうしたの?痴漢?」
と声を掛ける男性も現れるかもしれないし、容疑者の男性も、頭の禿げ上がった、小太り、50代だけに、それだけで周りから容疑濃厚の目で見られてしまう。
私の印象としては、
(本当に痴漢をしたのなら、ここまで抗弁するかな?正直、相手の女性も中年だし…。たぶん、混んでいるから、意図せず男の手が女の尻にでも当たっただけなのだろう。)
とは思ったが、真相はわからない。
二人は大声を上げながら、ともに怒りが収まらなくなり、手がつけられない状況になっていた。
さて、次の駅で降りた二人、その後、駅員が呼ばれ、駅員に連れられて駅事務室に行くことになるだろう。
駅事務室では、女性は男性と離れたところに案内され、駅員から、被害を受けたか、警察を呼ぶかどうかを聞いてもらえる。
男性はといえば、言い分など聞いてもらえず、女性が警察を呼べば犯罪者になるだけだ。
警察が到着すると、警察は女性の被害を聞き、男性に容疑を認めるかを尋ねる。男性が容疑を認めず、女性も許さないとなれば、警察は男性を署へ連行する。
男性が警察署で飽くまで無罪を主張すれば、「強情なふてぶてしい奴」との心象を警察は持つ。そうなると警察の威厳にかけて検察に送られ、立件される。
日本の司法は圧倒的に検察有利なので、証拠が乏しい痴漢事件では、無実の証明ができないと有罪になってしまう。「疑わしきは被告人の利益に」とは言うが、現実は弁護側は弱いのである。
痴漢事件でも、容疑者の手に残った繊維などの捜査手段はあるが、人を疑うことが商売の警察で、そこまで公平に、手間をかけ調べてくれるとは限らない。
あなたが男性で、無実なのに痴漢の容疑者にされてしまった場合、駅員なんかに期待してはいけない。
駅員は、痴漢があったかどうか公平な立場で裁いてくれるわけではない。
被害の訴えを無視すれば問題になるので、警察を呼んで欲しいと言われれば機械的に呼ぶだけである。
そのうえ、駅員に連れられて駅事務所に行くと、それは「私人による準現行犯逮捕」ということになるらしい。
警察も、
「本当にやっていないなら、署で話をゆっくり聞くから」
と、任意同行のように見せかけて警察署に連れて行くが、これは逮捕された容疑者を連行していることになる。もはや、外部への連絡は制限され、帰宅などの自由は奪われてしまうのだ。
無実なのに痴漢の容疑者になってしまった場合、後ろめたくなくても、駅員についていってはいけない。
「私は痴漢などやっていません。本当です。」
と誠意を尽くして被害者を説得する。駅員も警察も、女性の訴えを基づいて動き、あなたの訴えに基づいて動くわけではない。無実を主張して怒鳴っても、相手が怒れば自分が不利になるだけなのである。
説得しても、相手が納得してくれない場合、
「私は痴漢をしていないので、駅事務所に行きません。」
と言って、立ち去るのが正解なのである。卑怯のように感じるが、後ろめたくなければなおさら、何といわれようと立ち去るのだ。誠意を見せるために連絡先を教えてもいいが(その後、女性はあなたを訴えるかもしれないが)、その場で「準現行犯逮捕」されるよりは、はるかにましである。
後日警察が来れば、
「逮捕状はあるのですか?」
と応じ、警察が裁判所から逮捕状を取得し、あなたに提示された場合のみ従うだけである。そのまま駅事務所に行けば「有罪行きベルトコンベア」(「ぼくは痴漢じゃない!」(鈴木健夫))に乗るだけに、大きな差である。
女性が立ちはだかったり、正義感に燃える駅員に腕を捕まれて、立ち去ることができなくなれば弁護士を呼ぶ。顧問弁護士などいなくても、弁護士会の当番弁護士を呼べば良いのである。最低でも家族に連絡し、弁護士の手配を託してから警察に会わなければならない。
満員電車に乗るときには、弁護士会の当番弁護士センター(都道府県別)の電話番号は調べておく。(当然私も携帯に登録している。)この世から痴漢をする犯罪者がいなくならない限り、痴漢の冤罪を被る危険性は、男であれば誰にでもあるのである。
痴漢は憎むべき卑怯な犯罪である。被害者の女性を苦しめ、罪なき男性を冤罪に陥れる土壌を生む。
駅員は、容疑者を駅事務所へ連れて行くことの意味の大きさを自覚していない。無実のあなたを守るのは、駅員ではなく自分自身だけである。
(参考文献)
「ぼくは痴漢じゃない!−冤罪事件643日の記録−」
(鈴木健夫)新潮文庫
「痴漢『冤罪裁判』 男にバンザイ通勤させる気か!」
(池上正樹)小学館文庫