信楽高原鐵道事故

 「誰も語りたがらない 鉄道の裏面史」

佐藤 充 5年ぶりの書き下ろし!
107 名の死者を出した「福知山線脱線事故」、政治家の思惑がからみあう「新幹線の利権」、鉄道が買われる「阪神電鉄村上ファンド買収事件」、東京を襲った未曾有のテロ「地下鉄サリン事件」、首都圏で起こった乗客の暴動「上尾事件」、初代国鉄総裁の謎の死「下山事件」……
2015年5月15日発売

信楽高原鐵道事故(近江鉄道の頃)

彼は、平成に入る前、近江鉄道の運転士として、24年間ハンドルを握り続けた。

この彼が、のちに信楽高原鐵道事故の重要人物となるのだが、本名を紹介する必要はないだろう。このまま「彼」として書き続ける。

彼が勤めた近江鉄道は、略すると「近鉄」になるが、巨大私鉄の近畿日本鉄道とは違う。近江鉄道とは、滋賀県を走る小さな鉄道会社で、琵琶湖の南の近江盆地を、米原から南西方向に貴生川(きぶかわ)まで走る。東海道本線のさらに南の路線である。

貴生川は、東海道五十三次の水口(みなくち)宿にあたる旧宿場町で、水口宿から西は、石部宿、草津宿、大津宿、京都へと至る。現在でも貴生川は、JR草津線、近江鉄道、信楽高原鐵道の3路線が交わり、地方ながら鉄道交通の要所でもある。

近江鉄道は、鉄道交通の要所である貴生川と米原を結んではいるが、実態は赤字ローカル線だ。
ダイヤは、日中だと30分に1本しかない。電車は、1両か、2両編成のワンマン運転。駅の多くは無人駅。運転士といっても、駅に到着すればドアも開けるし、無人駅では切符の回収もする。

彼は、そういう運転士を24年間続けてきた。

(以下、「鉄道の裏面史」をご覧ください。

続く



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信楽高原鐵道事故(第2の鉄道人生)

前回までのあらすじ)
「彼」は、滋賀県を走る小さな鉄道会社、近江鉄道で働いてきた。そのうちの24年間は運転士である。
運転士といっても、その仕事は運転だけではない。駅に着けばドアを開け、切符を回収する。客扱いが終わればドアを閉め、ハンドルを握る。
これが彼の鉄道人生だった。


このように黙々と働き続け、彼は56歳になった。定年退職も近い。
しかしこの年、昭和62年は、彼に転機をもたらす大きな出来事が発生する。国鉄が民営化され、JRが誕生するのだ。
私鉄に勤めていた彼には、国鉄の民営化など関係なさそうだが、意外にも大いに関係してくる。

近江鉄道の西端の貴生川(きぶかわ)には、貴生川と信楽の14.7kmを結ぶ、国鉄信楽線という短い路線があった。
この信楽線は、国鉄民営化の6年前の昭和56年、国鉄再建のための第1次廃止対象路線に選ばれ、まさに風前の灯になる。つまり、国鉄の重荷になっている赤字ローカル線の一つとして、切り捨て対象に選ばれたのだ。

それでも、このときは存続を望む住民の努力が実る。一度は廃止対象となったものの、その後は基準をわずかに上回る輸送人員が続き、国鉄に残れるのではないかと思われた。

しかし、その期待は数年後に裏切られることになる。民営化直前に廃止対象の基準が引き上げられ、あっけなく再び廃止対象路線になった。
こうなると、住民の努力の及ぶところではない。ついに国鉄民営化の年、第三セクターに転換されてしまう。

信楽線は、第三セクターの信楽高原鐵道になり、滋賀県や信楽町などの自治体の他、民間からは近江鉄道の出資を受ける。
この出資が、彼を信楽高原鐵道の社員にさせるのである。

ちなみに、近江鉄道が信楽高原鐵道に出資するのには、それなり理由があった。

近江鉄道は米原駅から貴生川駅までを結び、信楽高原鐵道は貴生川駅から信楽駅までを結ぶ。この既存路線を活用し、さらに信楽駅からJR片町線を結ぶ新線を建設すれば、近江盆地と大阪の中心をつなぐ、新たな鉄道路線が生まれるのだ。



この鉄道構想は、滋賀県や県下の自治体が熱望しており、実現すれば、近江鉄道も幹線鉄道にのし上がる。
この鉄道構想があるからこそ、近江鉄道にとって信楽高原鐵道は大切な路線であり、出資もするのである。

この鉄道構想、実現性は高いとはいえないが、それでも彼の人生を変えるだけの力はあった。信楽高原鐵道は、第三セクターに転換する際、社員を旧国鉄出身の人と、出資元の近江鉄道出身の人で再構成して出発する。彼はその大事な一翼を担うのである。

信楽高原鐵道は近江鉄道と隣接するが、その様相はだいぶ違う。
信楽は陶芸の里だけあって、丘陵地帯にあり、信楽高原鐵道も高低差のある路線を走る。平らな近江盆地を走る近江鉄道とは異なり、この鉄道は山を走るのである。

客との距離感もだいぶ違う。路線が短いので、客と社員が地元の知り合いであったり、そうでなくても、地元の客とは何度も顔を合わせるので、知り合いになってしまう。

地元の客が汽車に乗り込めば、運転士は、

「おぅ、今日は病院か?」

と話しかけ、持病の話、作物の話などが交わされる。

路線の短さから言えば、信楽高原鐵道はバス会社などよりも小さい。地元の客との距離感は限りなく近いのだ。

近江鉄道に比べても、かなり「ローカル」な信楽高原鐵道。こののどかな鉄道が、発足からわずか4年後、大事故の舞台となるのである。

続く



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信楽高原鐵道事故(信楽駅長の仕事)

前回までのあらすじ)
近江鉄道で運転士を長くやっていた「彼」は、旧国鉄信楽線を引き継ぐ、第3セクターの信楽高原鐵道で第2の鉄道人生を歩み始めた。
この信楽線は、山間部を走る短い路線で、近江鉄道よりもローカルな路線だった。


信楽高原鐵道は、約20名の社員でスタートした。国鉄時代の約半分の人員である。

社長は信楽町長が兼任し、その他にも町役場の人が名を連ねる。町役場から来た人たちは、当然ながら鉄道事業は未経験で、それ以外の人たちが鉄道の実務を担う。

運転士は5名ほどである。その運転士を含め、鉄道の運行と駅務を行う部門(事故当時の部門名は「業務課」)には、全社員の半分の約10名しかいない。
彼らは少数だが、その構成は元国鉄職員と元近江鉄道社員の混成だった。同じ鉄道マンとは言っても、異なる土壌で育ってきた人たちである。

町役場の人、元国鉄職員、元近江鉄道社員。バックヤードが異なる約20名によって、信楽高原鐵道株式会社、略称SKRは発足する。昭和62年のことである。

SKRでは、有人の駅は、両端にある信楽駅と貴生川駅しかない。途中の玉桂寺前、勅旨、雲井、紫香楽宮跡前の各駅は無人駅で、貴生川駅も、業務をJRに委託している。
SKRとJR西日本は、貴生川駅を「共同使用駅」としているわけだが、「共同使用」というような対等な感じではなく、弱小のSKRが立場をわきまえ、遠慮がちに、巨大企業のJR西日本に身を寄せているように見える。
1両程度のSKRの車両は、貴生川駅の一番端のホームに出入りする。ホームも一つで、他に車両を留置させる線もない。改札口にはJRの社員しかいない。
さらに、貴生川駅ではSKRの切符すら買えない。これは、出札(切符の販売)まではJRに委託していないためである。貴生川駅からSKRを利用する乗客は、切符を買って乗車することができず、下車するとき精算する。無人駅であれば車内で、信楽駅であれば改札で。
つまり、この会社の業務は、ほとんど信楽駅に集中しているのである。

「彼」は、この小さな鉄道会社の社員として、第2の鉄道人生を送っていた。それも、信楽駅長という大役を担って。
田舎の駅長と言えば地元の名士にもなるが、信楽駅長はそのような名誉職ではない。「駅に関する一切の業務及び運転に属する一切の業務を処理する」実務的な仕事で、駅務と運行を掌握する立場なのだ。
小さい鉄道会社ならではの、かなり広範囲の仕事をするポジションである。このため信楽駅長は一人ではない。常時欠かすことのできない仕事なので、複数の人がシフトで担う。

彼は、信楽駅長兼運行主任として、SKRの中核となり、信楽駅で毎日鉄道を支えていた。


彼の日常は―

信楽駅に列車が入ってくるのは1時間に1度。この路線の運行は非常に単純で、一両か二両の車両が信楽と貴生川を往復するだけ。
昼間の駅舎には、数名の地元客と、陶芸を愛する熟年の観光客しかいない。

彼は、列車が信楽駅に到着する頃になると制御盤に向かう。この制御盤で、駅の信号などを制御し、列車を構内に導く。

「まもなく、列車が到着します。」

駅舎にいるお客さんに対して、列車到着のアナウンスをする。
駅舎で待っていた人たちは、ゆるゆるとホームに移動する。

しばらくすると、

「グルルルル・・・・」

と、1両の気動車が、山並みを背景に、遠くのカーブから姿を現す。そのまましばらく、壮大な自然をバックに、小さな車両がフラフラと近づいてくる。
信楽駅に到着すると、この列車はそのまま折り返しの上り列車になる。
信楽駅と背後の山

貴生川までの14.7kmのこの軌道は、1列車しか走らない。あまりにも贅沢というか、非効率なインフラである。反面、並行する国道307号には、車の往来が絶えない。

国道から少し離れたこの信楽駅では、車の音もなく、この気動車のエンジン音だけが響く。このエンジン音は、かえって静けさを際立たせる。

列車がホームに着き、ドアが開けられると、乗っていた客が降り、入れ替わって待っていた人たちが乗り込む。
しばらくして出発時間になると、彼は出発信号機を青にする。列車は再び、1時間かけて、信楽駅と貴生川駅を往復する。

のどかな路線である。彼の仕事は広範囲に及ぶとはいっても、難しいことはなかった―


彼をはじめ、少数の鉄道マンたちが支えるSKRだが、1編成しか運行されないので、列車の正面衝突は絶対に起きない路線であった。

そんな、乗客が少なく厳しい経営環境のSKRだが、発足から4年後に大好況が訪れる。
平成2年、信楽駅からほど近いところに、滋賀県立の「陶芸の森」という、陶芸のための巨大公園が完成する。県をあげて、この信楽に観光用の投資がなされたのだ。
そして翌年、「世界陶芸祭」という大規模イベントの開催が決まり、「陶芸の森」の華々しいお披露目となる。

このイベントには、大勢の人が押し寄せることが予想された。小さなSKRも、その大量輸送の一翼を担うことになる。

続く



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信楽高原鐵道事故(世界陶芸祭)

前回までのあらすじ)
信楽高原鐵道(通称:SKR)の路線は、14.7kmしかない。ダイヤも、1列車が往復し続けるだけの単純なもの。そこに、「世界陶芸祭」という大イベントが開催されることになり、SKRもその大量輸送の一翼を担うことになった。


(想定の輸送人員が約9万人か・・・)

SKR社内では、期待と不安のため息が漏れていた。
世界陶芸祭の期間は、平成3年4月20日から5月26日までのわずか37日間。つまり、1日あたり約2,400人、週末はさらに人数が増えることが見込まれた。

これはとんでもない数字である。
この路線の乗降客数は、一日あたり1,500人程度。一気に3倍近くに膨れ上がってしまうのだ。

(かなり大幅な増収になるが・・・)

単純計算で約4,000万円の増収見込み。存廃が問われ続けた鉄道路線にとって、このイベントは大きなチャンスである。イベントによる収入増だけでなく、イベントが終わっても「陶芸の森」という観光スポットが残る。地元にとってもSKRにとっても、期待は大きかった。

しかし、喜んでばかりもいられない。この輸送人員は小さなSKRが担える数字ではない。
信楽駅のホームの長さは3両編成までしか対応していないし、路線は単線で、途中に行き違いができるところもない。3両編成が往復し続けたとしても、休日には輸送力が足りなくなるのである。

そこでSKRは、列車が行き違える小野谷信号場を新設し、大きな設備増強を決断した。
今まで、途中に信号もなかった路線で、信号システムも大幅な変更になる。
小野谷信号場(跡)
しかし、輸送力不足の問題は、行き違い設備を作るだけでは解決しない。ダイヤを増やせば、乗務員も車両も増やさなければならない。しかし、国鉄時代と違って、SKRだけではどうしようもできないので、JR西日本と会社間の契約を結び、車両と乗務員を借り入れることにした。

別会社となった、JR西日本とSKR。車両と乗務員の借り入れについては、こうして線引きがはっきりする。JR西日本の車両や乗務員が乗り入れれば、SKRには代金を払う債務が発生する。

一方で、線引きが不明解なところもあった。信号工事のうち、貴生川駅から小野谷信号場間はJR西日本が受託して行ったのだ。
SKRの信号設備を、他の鉄道会社が工事するのである。(これが、のちの正面衝突事故の伏線となる。)常識的に考えれば、ありえない委受託だ。

不可解ではあるが、一応理由がある。SKRは貴生川駅の管理をJR西日本に委託しており、貴生川の出発信号機も、JR西日本が扱うことになったのだ。
しかし、業務の委託が、会社の境界線を曖昧にさせる。
貴生川駅から小野谷信号所の運行管理は、当然ながらSKR管轄である。しかし当事者たちは、JR西日本が管理するように感じる。

このような雰囲気の中で、JR西日本が貴生川駅から小野谷信号場、SKRが小野谷信号場から信楽駅と、それぞれが工事を行うことになったが、SKRが全体をしっかり把握して管理していたわけではない。その証拠に、お互い無断で追加の改修工事を行ってしまう。

特にJR西日本は、「方向優先テコ」を自社の亀山CTCセンター内に設置し、SKRの小野谷信号場の信号を制御できるようにしてしまった。これは、相手の懐の中に手を突っ込むような設備だが、この追加工事をSKRに正確に伝えていない。

このような、全体を誰も管理していない工事施工により、ある条件になると、信楽駅の出発信号機が青に切り替わらないという、矛盾が内包されてしまうのである。

続く




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信楽高原鐵道事故(国鉄出身の上司)

前回までのあらすじ)
信楽高原鐡道(SKR)は、「世界陶芸祭」で初めて大量輸送を担うことになった。
輸送力増強のため、行き違いの小野谷信号場を新設し、信号設備の大幅変更を行ったが、JR西日本との連携が悪く、信号回路に矛盾が生じてしまう。


無人の小野谷信号場の新設、信楽駅の増強、JR西日本との取り決めの締結。やらなければならないことは山積していた。さらに、新しい信号と運転に関わる教育を、SKRの社員と、乗り入れるJR西日本の乗務員に行わなければならない。

最小限の社員に絞り込まれたSKRで、この大きなプロジェクトの推進役になったのが、国鉄出身のN業務課長だ。

N業務課長は、SLの機関士出身で、亀山運転区で助役を勤めた後、国鉄民営化で後輩たちに道を譲ってSKRに転じた男である。
元々、SLの釜たきをやっていた機関助士あがりで、気骨のある、根っからの鉄道マンである。その彼が、事故の1年前に業務課長に就いた。

(以下、「鉄道の裏面史」をご覧ください。

続く




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信楽高原鐡道事故(代用閉そくと事故の予兆)

前回からの続き)

平成3年5月14日、信楽高原鐡道(貴生川〜信楽)で大事故が発生した。
列車が正面衝突して、42名の人が死亡したのである。

このとき信楽では「世界陶芸祭」という博覧会が開催されていて、鉄道も混雑していた。
信楽高原鐡道(SKR)は、国鉄から切り離された第3セクターで、存続が危ぶまれ続けたローカル線だが、この1か月間だけは乗客の大量輸送を担っていたのだ。

SKRは、このイベントに向けて輸送力を大幅に増強した。
単線のこの路線は、1編成が往復し続けるだけの単純な運行だったが、中間に「小野谷信号場」を新設して、列車が行き違えるようにしたのである。
これにより、同時に2編成が運行できるようになった。

信号設備も変わった。それまで中間に信号機はなかったが、当然ながら小野谷信号場には信号機が必要だ。
信号工事は、SKRの路線ではあるが、JR西日本とSKRが関わる。始点の貴生川駅の業務はJR西日本に委託されており、貴生川駅の出発信号機の扱いもJR西日本が行うのだ。
そのため、貴生川駅から小野谷信号場の間の信号工事は、SKRがJR西日本に委託する形で行われた。しかし、この両社の連携が悪く、ある条件が重なると信楽駅の出発信号機が青にならないという、信号回路の矛盾が生じてしまう。

これが事故の背景だ。
一方、事故に関与する人物として、今まで2名の鉄道マンを取り上げてきた。
一人は、事故で殉職するN業務課長で、もう一人は、事故の際に信楽駅長・運転主任を担当した「彼」だ。

N業務課長は国鉄出身で、「世界陶芸祭」に向けたプロジェクトを仕切っていた人物である。
自負が強く、独断専行の人だが、人物としては業務課長の要職を担うほどではない。
安全に対する意識が低く、SKRとJR西日本がすでに別会社であるという意識も薄い。ベテランの鉄道マンだが、後述の代用閉そくの処置方法もわかっていない。
彼が業務課長だったところに、この会社の人材不足が見て取れる。

もう一人の「彼」は、近江鉄道の運転士を24年も務めてきた人で、管理部門の経験の少ない現場の人である。
地元の穏やかな人だったが、N業務課長の指示にも翻弄されて、後の刑事裁判で有罪判決を受ける。


実は、この大事故には予兆があった。11日前の5月3日のことである。
それも、大事故と同じ時間、同じ列車で、同じトラブルが発生する。

5月3日の10:14信楽発の普通電車534D。このとき信楽駅長・運転主任だったK(事故の日の「彼」とは別人物である)は、列車を信楽から出発させるため、制御盤を操作して出発信号機を青にしようした。
ところが、この出発信号機が切り替わらない。

「えらいこっちゃ、信号が出ん」

Kは、信楽駅長・運転主任を務めるようになってから日が浅い。
そのうえ、この534Dと小野谷信号場で行き違うのは、JR線からの直通列車(快速501D)である。この列車には、「世界陶芸祭」に向かう乗客がまさにすし詰め状態で乗っていた。
快速501Dが貴生川駅で足止めになれば、すし詰めのお客さんの足が奪われてしまうのだ。

Kは、なんとか出発信号機を青にしようと焦る。そして、たまたまホームにいたN業務課長を見つけて相談した。
ただ、そもそも運転主任はKであり、ここは本来はKが判断すれば良いことである。


信楽駅の出発信号機が青にならない場合、中間の小野谷信号場と信楽駅の間で、代用閉そくの処置をしなければならない。
これは、信号が動作しないので、信号の代わりに人間系で安全を確保するものである。
SKRが定めた手続きに沿って、大まかに説明しよう。

・普段は無人の小野谷信号場に駅長役を派遣する
・区間内(この場合、小野谷信号場〜信楽駅)に列車がいないことを確認する
・両端の駅長が連絡を取り合い、出発駅の駅長が「運転通告券」を運転士・車掌に発行する
・両端の駅長の打ち合わせにより、一人の「指導者」を選任し、運転士はその「指導者」を乗せる
・出発駅の駅長が、手信号で出発を合図する

となる。
信号機故障がすぐに復旧しない場合、迅速にこの手続きを進めなければならない。
手間のかかる手続きのため、大幅なダイヤ乱れは避けられないが、安全を確保するためには仕方がない。


出発信号機の故障を聞いたN業務課長は、Kに

「ポイントはよいか」

と尋ねた。
制御盤を操作してポイントと信号を切り替えるのだが、ポイントが切り替わらなければ信号も切り替わらない。まず、ポイントの故障なのか、信号の故障なのかを確認する。
N業務課長は、故障の状況を知るために正しい判断をしたのである。

この点はKも確認ずみで、「ポイントは問題なく、信号だけが青にならない」と、N業務課長に回答した。ポイント故障ではなく、信号機故障である。

「それやったら、はよ列車をだせ」

とKにきつく指示した。

信号は赤だが、そのまま列車を出してしまえというのだ。
代用閉そくの処置もせずに赤信号で列車を出すなど、ありえない指示である。

独断専行の厳しい上司(N業務課長)から、人命を危険にさらす誤った指示を受けたK。
経験の浅いが、この判断は運転主任であるKの職責の範囲で、K自身が相談を持ちかけたといっても、N業務課長が指示するのは越権でもあった。

人命の危険と独断専行の上司の指示に挟まれたKは、この状況にどう判断したのだろうか。

続く




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信楽高原鐡道事故(従ってはいけない命令)

前回までのあらすじ)
信楽高原鐡道事故には予兆があった。事故の9日前、信楽駅の出発信号機が青にならなくなり、列車が出発できなくなったのだ。事故とまったく同じ時間、同じ状況である。
このときの運行主任・信楽駅長は経験の浅いK。彼は上司である業務課長から、赤信号でも列車を出発させろ、と指示を受ける。
上司とは言っても業務課長の指示は越権で、それ以前に代用閉そくをしないで赤信号で列車を出発させることは、人命軽視の行為だった。


Kと業務課長は、信楽駅のホームで向かいあっていた。幅の狭い田舎駅のホームである。

「小野谷に人を送らなあかん。」

運行主任になったばかりのKだが、小野谷信号場に人を送って、代用閉そくの処置が必要なのは理解している。
業務課長のきつい指示にも、彼は運行主任として抵抗した。

しかし、Kの進言に業務課長は逆上して、すごい剣幕で怒鳴りつけた。

「そんな人いらんやないか!誰が小野谷に行くのか!」

すし詰めの列車が、駅もないところで足止めになれば、乗客は耐えられないだろう。駅で列車を待っている人たちも、世界陶芸祭に行けなくなって激怒するに違いない。

業務課長は、何よりも混乱を回避するのが鉄道マンの職責だと感じた。安全への意識は薄い。

また業務課長には、事故が起きないという自信もあった。赤信号で列車を出すと、誤出発防止装置が働いて小野寺信号場の下り出発信号機が赤になる。
つまり、信楽に向かってくる下り列車は、

(小野谷信号場で止めれられるはず、途中で列車が正面衝突することはない)

と信じていたのだ。
もちろん、誤出発防止装置をあてにして、赤信号で列車を出すのことは許されるものではない。

小野谷信号場の下り出発信号機(跡) 小野谷信号場の下り出発信号機(跡)

Kは、業務課長の命令に抵抗したものの、結局は逆らうことができず、言われるがままに手旗で出発合図を出した。上り列車は、Kの出発合図に従って、赤信号で出発したのである。

業務課長はこの列車に同乗して出発したが、Kは信楽駅に残された。そして、業務課長がいなくなってから、自分がやってしまったことの大きさに激しく動揺した。

「赤で列車を出してしもた。小野谷に人をやらずに出した。えらいことをした。」

同僚に泣きつくが、その同僚も客の対応に忙しい。

動揺がおさまらないKは、一度は自動車で小野谷に向かうが、やはり信楽駅に留まるべきだと思い直し、途中で引き返す。
もはや事故が起きないことを祈るのみである。

乗客の命を預かる鉄道マンとして、絶対にやってはいけないことをやってしまった。
Kはそれを良くわかっていた。だからこそ、これだけ動揺したのだ。

Kを批判することはたやすいが、これは我々にも問われる。
全国の鉄道マンたちは、Kと同じ状況に置かれたときに、上司の命令に逆らえるだろうか。

この日、SKRの運行主任・信楽駅長だったKの場合は、それができなかった。
Kだけではない。列車を出発させた運転士も、「指導者」の役割で列車に同乗した運転士も、誰もが拒否しなかったのである。
(むしろ、業務課長に同調したほどだ。)

幸い、この日は事故は起きなかった。
業務課長が目論んだとおり、誤出発防止装置が働き、小野谷信号場の出発信号機が赤となって、信楽に向かう下り列車が止まってくれたのである。


事故を免れたSKRだが、信号故障の原因も判明させられず、9日後の大事故を引き起こしてしまう。
また、この下り列車の乗務員はJR西日本の社員だったが、SKRの危険な運行を目の当たりにしつつも、JR西日本でそれが周知されることはなかった。

(続く)



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